日本の無責任体質は庶民の防衛本能から

昨日の報道で、自動車メーカーのSUBARUも日産と同様に工場での完成品検査において無資格の社員が業務を行なっているのが発覚しました。恐らく、30年という長さにわたってこの方法で検査を行なっていたことは、資格の有無はそれほど問題でなかったということは言えるのかも知れませんが、それならば必ず資格を持った人間が直接確認するのでなく、最終的な確認のみを資格を持った責任者にやらせるような形での国の決めた方法の変更を自動車メーカー全体が政府に働きかけるべきだったのではないでしょうか。

そういう事をしないで、形式上ちゃんとやっていたということにしていたというのは、いつかはこのようにバレるもので、それまでの無責任体質がどんな大きな企業にもあるということを世間に明らかにするとともに、実は決して「日本人は勤勉な国民性がある」ということが全てではなく、「日本人は歴史的に無責任な体質を持つ」ということも明らかにしてしまったのではないでしょうか。

こんな事を書くのは、かなり前に作家の井上ひさしさんのエッセイを読んでいて、江戸時代の話として、以下のような言葉に関する話題について読んだことを思い出したからです。これは、明確なソースは見付けることはできませんでしたが、井上ひさしさんによると、江戸時代の天気を予想する役人が編み出した天気予報に関する言葉なのだそうです。

「明日雨降り候天気には御座なく候」

この言葉をそのまま読むと、「明日は雨降りで天気ではありません」と翌日の雨を予想する言葉のように思えます。しかし、同じ文章にひとつ句読点を付けて読ませると、その内容は全く変わってしまうのです。

「明日雨降り候天気には、御座なく候」

ここで句読点を打って読むと、「明日は雨降りの天気ではありません」と反対の結果を表わす内容になってしまうのです。井上さんによると、こんな言葉が生まれた背景として、安易に家臣を殺さない工夫がつまった言葉が「明日雨降り候天気には御座なく候」なのだとか。

例えばお殿様が翌日狩りに行かれるので、翌日の天気を報告せよと言われた場合、現在の技術をもってしても天気予報は外れるものですから、この時代の予報の精度は決して高くなかったと思われます。天気予報が当たれば問題ないのですが、もし翌日の晴れを予想して当日雨が降り、殿様のあつらえた装束がびしょ濡れになってしまったらどうなるでしょう。恐らく当時の武士の習いとして、予報を出した役人は責任を取って切腹ということになってしまうでしょう。ご奉公のために天気を予想しているだけなのに、予報を出す度に命掛けになってしまうのでは、誰もが怖がって予報を出すことができなくなります。

そうして考え出されたのが「明日雨降り候天気には御座なく候」という言葉だったと井上さんは書いています。この便利な言葉で天気の予報をしているうちは、どんな天気になっても天気予報が外れということにはならないので、誰も死ぬことにはなりません。もっとも、こんな言葉だけでお茶を濁しているのでは、天気予報としては全く役に立たないだけでなく、天気予報の精度を向上させるどころか、天気の研究そのものを止めてしまいかねない言葉だとも言えます。

ある意味では日本人は狡猾で、誰も責任を取らないようにしたり、その場から逃げおおせたりする知恵という点ではかなり優れていると思います。そうした歴史からしてみると、今回様々なメーカーで明らかになった不正というのは、今まで誰も責任を取らずに逃げてきた事が明らかになっただけで、日本人のある種の特質を現わしているだけに過ぎないとも言えるのです。

こんな事に知恵を使わなければならなかったのは、現場でかなり無理な事を会社の上層部だったり政府から押し付けられてきたからではないかとも考えることができます。今回の日産やSUBARU、そして神戸製鋼での不正についても、なぜ不正が行なわてきたかという原因追求の考え方として、現場の怠慢や気の緩みという点だけでなく、どれだけ現場にしわ寄せが行っていたのかという事も合わせて考えないと、収束には向かっていかないのではないかと思ったりもするのです。

以前にもこのブログで書かせていただいたように、ほんの少しの気の緩みで出てしまった性能の劣化分というのが積もり積もって起こるのが大きな事故になる場合もあるわけですから、結果的に会社の無責任体質を生み出したのはどこにひずみがあったのかというところまでを検証しないと、また別のところで問題が出てくるような気がしてなりません。


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