おくやみ」カテゴリーアーカイブ

日々の訃報の中から自分の記憶に残したい人について書いていくことで故人を偲びたいと思います。

スズキの鈴木修・元会長の訃報を聞き一つの時代の終わりを感じることに

自動車メーカースズキの鈴木修・元会長が94才で亡くなりました。強烈なリーダーシップでスズキを大企業に成長させるとともに、政界への関わりもあり、静岡に住んでいる人は何らかの影響を受けていたのではないかと思います。

私の世代だと本田技研の本田宗一郎氏は伝説の存在ですが、鈴木修氏も小さな企業を大きくし、今にいたる軽自動車の発展を牽引したという点では同じくらいのパワーを持っていたと言えるのではないでしょうか。

スズキの車というのは、他車と比べて「安さ」を前面に打ち出した戦略で大きく伸びました。47万円で新車として発売された「アルト」や、その後出た「マイティボーイ」は新車の最低価格は45万円という、同車のコマーシャルの「金はないけど目立ちたいからマイティボーイ」というはっきりとしたコンセプトで売り上げを伸ばしました。

その代わり、中古車で購入する場合ほとんどの装備がない状態だったり、細かなところの耐久性に疑問が付いたりと、安かろう悪かろうという部分は当然ありました。それでも、安い車ということを追求したのは企業の個性であるという開き直りのようなところもあったように思います。

かつて私も「ワゴンR」のオーナーとして車中泊ではかなりお世話になりましたが、そのころでもエアコン・オーディオ・パワーウィンドといった一通りの装備が付いた特別車をディーラーのワンプライスで販売していて、他車と比べると十分安く新車でも100万かからずに買えたので、そうした車に世話になった方も多いのではないかと思います。

鈴木修氏の話としては、先日車検をお願いした修理工場の担当の方が元々スズキのディーラーで働いていた方で、お話を伺ったことがあります。スズキはディーラーで車を売るだけではなく、街の中古車屋さんに新車をおろして売ってもらうというような販売方法も多く活用していたそうです。新車販売の成績が良いお店は、その成績に応じて招待旅行があるのですが、その懇親会には必ず鈴木修氏は出席し、中古車店の店主さんと会い、握手をして写真を撮るという一連の流れを続けていたそう。そうすると、中古車店の方は、あの鈴木修氏が自分のために色々やってくれたと感激し、新車販売のモチベーションになっていたのだろうと思えます。

その反面社員にはかなり厳しかったようで、徹底したコストカットをして新車を安く売るための方法を考えさせるような厳しさを出していたのだそう。昔気質の経営で会社を大きくしていった伝説の人物として今後も語られるようになるのではないかと思います。

一つ残念なのは、現在の軽規格からさらに排気量を上げる新軽規格を鈴木修氏存命中には達成できなかったことではないでしょうか。スズキが進出したインドでは、実に魅力的な車を多く作っているのですが、800・1000・1200の車は日本国内の規格では普通車になってしまい、利用コスト的には不利です。もし今後軽自動車の規格が800ccまで良くなれば、スズキのインド工場で作っている車を即投入できるので、かなり面白いことになるのでは(800ccの軽ワンボックが実現すれば車中泊には最強?)と思っていたのですが、政治的な問題がからんで来るので、もし鈴木修氏の剛腕でこの状況が打破できていたらと思うこともあります。

もはや自動車はガソリンから電気へと移行はしているものの、そう単純なものではありません。今後スズキがどういった方向性で進んでいくのかはわかりませんが、軽自動車というキーワードで大きくなっていった企業であるだけに、他のメーカーとは違ったアプローチで魅力的な車の数々を出したり、軽自動車規格の変更に向けても政治への働き掛けは行なっていって欲しいですね。

ジャズ・ピアニストでオカリナ奏者の明田川荘之さんに教わったこと

私の人生において「師匠」と呼びたいくらいお世話になっていた方はそれほどいないのですが、私が車中泊をしながらの旅をするきっかけになった方が、先月16日にお亡くなりになっていたという話を昨日聞きました。一般的には馴染のない方ではありますが、今回は今だに私の人生の師匠だと思っているジャズ・ピアニストでオカリナ奏者の明田川荘之(あけたがわ・しょうじ)氏について思うところを語らせていただきたいと思います。興味のある方もない方も、どうかお付き合いしていただければと思います。

明田川さんはお父さんで彫刻家の孝さんが、大量生産が可能な土を焼いて作る「オカリナ」についての製法特許を取り(粘土を整形してから焼くので同じ音が出るオカリナを大量生産するのは難しいのです)、自宅兼工房で全国に卸すオカリナのメーカー「AKETA」を運営されている中で(オカリナで有名な宗次郎さんは、明田川孝さんの孫弟子(?)くらいになるのだそうです。)、音楽に関わりながら育ちました。ピアノを習い大学の時にプロのジャズ・ピアニストとしてデビューしたものの、ある種の不安を持つことになります。

それは、芸能全般にわたって言えることですが、デビューするのは簡単にできるものの、その後どこからもお呼びが掛からなければ自分がいくら好きな事であっても続けていくことができないということです。そんな中、明田川さんは絶対に自分の夢を諦めなくて良い方法を思い付きます。それが、自らのお店を持ちそこで演奏する場を確保するというものです。そのお店が東京・西荻窪に今もあるジャズ・ライブハウス「アケタの店」です。お店の経営は大変なところもあったそうですが、彼の著作の中で「店は僕の命、絶対につぶさん」と書くぐらい、大切なものだったと言えるでしょう。

お店だけでなく、店内で録音した音源をレコードにして売り出すマイナー・レーベル「アケタズ・ディスク」も興し、自らのリーダー作を次々と発表しました。お店は日本のジャズ奏者が多数出演し、初期のレーベルの作品も現在多くがCD化されて今もネット配信で聞くことができるようになっています。

明田川さんの演奏の特徴は、とにかく演奏自体が面白いということではないでしょうか。私が最初に聴きに行ってどぎもを抜かれたのは、「ピアノを足で弾く」ということです。本人の言によると、フリーのような展開になると音域が偏ってしまい、どうしても激しく弾いている中で反対の音が欲しくなるような時に足でピアノを弾くような事をするのだそう。また、タオルを手に持って鍵盤を削るように弾く「カンナ引き」など、ピアノを壊してしまうのではないかと思うほどのとんでもない演奏をされます。後年はそうした噂が広がり、地方の会場でどこもピアノを貸してくれないのではと思ったそうで、調律についても知識を得、実際に地方での演奏後にきちんと調律をしてから帰ったのだとか。

こうした、常識では考えられないような自由な演奏はポピュラーの世界とは相容れないとは思いますが(テレビでの演奏を私は見た記憶はありません)、日本のジャズを愛好するファンの間では有名でした。一時期、スランプ(?)でジャズから離れていたというジャズピアニストで作曲家の渋谷毅さん(NHK「おかあさんといっしょ」での様々な有名曲を作っていることで知っている方もいるかも知れません)が、明田川さんの演奏に触れる機会があり、そこで今まで難しくジャズについて考えている自分に気付き、演奏を再開したという話は有名です。テレビとはあまり縁はなかった感じでしたが、それだからこそ自由に色々な音楽を私たちに提供してくれたのではないかと思ったりもします。

明田川さんはお店を拠点にし、様々な人とつながる中で、全国を回るライブ・ツアーに出ます。ただ、お金はないので当時の自家用車・スバルで全国を回る楽旅に出ていました。私がまだ学生の頃、学園祭のコンサートに氏のトリオを招聘したことをきっかけに交流ができ、一度ご自宅に泊めていただいたこともあります。その時にジャズの演奏以外に教わったのが、楽旅をしながら回った地方の温泉の事でした。乗用車でのツアーで宿泊費もないので車中泊をしながら回った中でも岩手・花巻周辺の温泉を勧められ、花巻温泉・台温泉・鉛温泉・志戸平温泉・大沢温泉など、近い範囲で多くの温泉がある東北地方や北海道の温泉についてその魅力を語っていただきました。そんな車旅へのあこがれがあって、私も車中泊をしようと思ったということもありまして、明田川さんの存在なくしては、このブログもなかったのではないかと思います。

ジャズというのは息の長い音楽で、今デビュー当時の音源を聞いても時代を越えて聞けてしまいます。お店がある事で、スケジュールで出演される日にお店へ出掛けて、色々とお話しさせていただいた事を今も思い出します。お店を続けるのは今のご時世で大変だと思いますが、後進の方々にはぜひ明田川さんの作った「場」を残していって欲しいなと思っています。興味のある方は、YouTubeや各音楽配信サイトでその演奏を聞けると思いますので、ぜひどうぞ。

谷川俊太郎さんの業績についてその作品とともに考えてみることにした

詩人の谷川俊太郎さんの訃報が流れてきました。車中泊とは関係ありませんが、今回は故人を偲ぶということで少々書かせていただきたいと思います。

私の谷川俊太郎初体験は、記録をひもとくと彼の初めての絵本という和田誠さんと組んだ「ケンはへっちゃら」という本に出会ったことでした。当然ながら本を見ていた時にはそこまで内容について深く考えられるような年齢ではなく、和田さんの絵と子どもが好きな「おなら」の擬音がことにつけ印象には残っていました。

その後、チャーリーブラウンとスヌーピーが登場するチャールズ・M・シュルツ氏のコミック「ピーナッツ」の日本語訳者としてその名前を目にしました。学校の授業では彼の「二十億光年の孤独」を読みましたが、最初の絵本の内容はともかく、世の中から至極まっとうに評価されている方であるという印象は持っていました。

その後、高校時代に何かのステージにご本人が出ているのを見る機会に恵まれました。ご本人は個人としての講演会というものは行なわず、ご当地の若い人との座談会という形であれば出るというようなスタンスだったらしく、一緒にステージに立った地元の子や会場からの質問に答えるような形でその座談会は進行していきました。その際、私が思った、教科書に載るような詩というのはあまり日常的には触れることがないのでとっつきにくい(?)というような話をした人がいました。それに答えた谷川さんの言葉は確か「でもぼく『鉄腕アトム』を作詞してるのよ」という感じだったと思います。なかなか地元在住だと有名な詩人の人柄というものに触れる機会はないのですが、この言葉だけは今でも覚えていて、それから彼に対する印象が変わりました。

その後、漫才の世界で大人気だったビートたけし(北野武)さんが、漫才の世界だけでは収まらないくらいに、深夜のラジオだけでなく映画の世界や歌にも挑戦している時期があって、その中で強烈な印象だったのが、谷川さんの詩に坂本龍一さんが曲を付けた「たかをくくろうか」は大人の味で、かなり印象的でした。北野さんの歌も良いですが、その後谷川さん自身が歌ったバージョンも良く、高校時代の事を思い出したりしました。

私にとっては、谷川さんはまさに日常的なものから詩の世界の扉を開かせてくれたような存在で、どんな人でも名前を知られているというのはやはりすごい人であるという感じがあります。ここまでだらだらとした駄文を書き連ねている身からすると、言葉を選んで短い表現の中で強い印象を読んでいる人に与える詩人というのはすごいと思います。最近では紛争の続くパレスチナのガザでソーシャルメディア上から作品を発表し続けていたリフアト・アライール氏の作品を読むと、詩というものは高尚なものではなく、人間の叫びを具現化してその気持が多くの人に伝わる文学の奥深さを感じずにはいられません。

谷川さんの死因は老衰だということですが、今の社会について谷川さんの言葉が聞けないというのは本当に残念です。むしろこれからの日本でこそ詩人の叫びが必要になってくるのではないでしょうか。私にはさすがに詩をひねり出す才能は無いので、国内で谷川さんに続く詩人の方の作品に今後は期待していきたいと思います。今生きる多くの人たちの不安を具体的に言葉として紡いでくれるような作品を目にできるようにと今は願っています。

自ら年賀状のやり取りをストップすることで起こってくる問題について

昨日のテレビのワイドショーでも、今後年賀状のやり取りを自ら止めてしまう「年賀状じまい」の具体的なやり方について特集的に取り上げられているのを見ていました。

時代はスマホ同士で連絡を普通に取るのが当り前となり、私自身もよくお付き合いがあって実際にお合いする方とは、今やメールではなくLINEのようなSNSを通じて連絡を取り合っています。そうした付き合いがほとんどだろうと思われる中・高校生であれば、あえて年賀葉書を一枚一枚書いて(あて名から)投函するような手間は非効率的と思うでしょうし、動画でもメールやSNSで送り合った方が合理的だと思います。

しかし、常に実際に一年を通じて頻繁にお会いできる人とだけつながっているわけではありません。それでも、大概の方がメールの他、フェイスブックやツイッターなどでアカウントを公開しているので、そうした連絡を頻繁にするか、何かあった時にそのアカウントにメッセージを送れば、年賀状は必要ないのではないかという事を私も最近まで考えながら毎年年賀状を書いていました。ただ、先日一通のハガキをいただいたことで、ちょっとその考えがゆらぎつつあります。

そのハガキは、以前は付き合いがあったものの昨今は没交渉になってしまった年長の私の先生とも言うべき方の奥様から届きました。その方は長いこと人工透析を続けていたので健康状態はどうかと思いつつ毎年年賀状のご挨拶は欠かさなかったのですが、奥様からのハガキによると今年の四月にお亡くなりになった旨の内容が記されていました。

その内容が書かれたハガキを読みながら、わざわざ連絡を下さった奥様に感謝するとともに、今まで散々お世話になっておきながらそのご恩をなかなか返せなかった後悔というものもありました。ただ、そうした事実を知らなかったら今だに見当違いの想いをその方に対してしていたかも知れないと思うと、やはり自分と相手の方の付き合いに一区切り付けるために、形に残るものとして一年に一回でも連絡をしておくことは大事だなと改めて思うこととなりました。

若い世代の方でも、突然自分の身内(父母や祖父祖母)が亡くなった場合、本人がどういった人と仲良くしているのかというのはなかなかわからないものです。ご遺族の方はまずご本人の残した物について整理をすると思いますが、そこに毎年来ている年賀状を見て、こうして年賀状を出してくれている人との関係を考えることができます。当然、そうしたデータはご本人が使っているパソコンやスマホの中にも入っているとは思いますが、そうしたデジタル的なデータの解析というのは優先順位的には後回しになるのではないかと思います。さらに、パソコンやスマホにロックがかかっていた場合は、ご本人が事前にエンドノートなどで連絡をしてくれと書いてくれていないような場合は、なかなか知人・友人まで連絡が行くことは無いと思われます。

少なくとも私の場合は、過去にお世話になった方とはきちんとお別れをさせていただきたいと思いますし、新型コロナ関連? と思われる有名人の訃報も少なくないので、年が多い人から先に亡くなるということもありませんので、同年代の友人であってもかなり濃密なネット(SNSやメールなど)での付き合いがない人については、年賀状を出して自分の生存証明を出すとともに、何かあった場合の連絡先を常に更新することは続けていきたいと思っています。

三遊亭円楽さんの突然の訃報によって考えるべき「病気との付き合い方」

昨日、テレビのニュース速報のテロップを見てはっとしました。落語家の三遊亭円楽さんの突然の訃報でした。日本テレビ系「笑点」のレギュラー回答者として、円楽襲名前の「三遊亭楽太郎」の頃から活躍していた方で、72才という年齢は、落語家としてはまだまだやれる年齢であり、更に芸を磨いて私たちに素晴らしい噺を聞かせてくれるはずだったのにと思うと、本当に残念です。

2022年1月に脳梗塞を発症し、リハビリの結果、高座にも立てるようになったことは知っていたのですが、その後肺炎を起こしてまた休業となり、心配していました。報道によると死因は肺がんとありまして、脳梗塞になる前から肺がんの治療をしていたそうですが、どちらにしてもご本人はまだまだやれるという気持ちはあったのではないでしょうか。

今回の訃報を聞き、作家の坂口安吾さんのエッセイ「青春論」の一節を思い出しました。友人で詩人の菱山修三氏の実体験を語ったものですが、以下に引用させていただきます。

(ここから引用)
菱山の話によると、肺病というものは、病気を治すことを人生の目的とする覚悟が出来さえすれば必ず治るものだ、と言うのであった。他の人生の目的を一切断念して、病気を治すことだけを人生の目的とするのである。そうして、絶対安静を守るのだそうだ。
その後、僕が小田原の松林の中に住むようになったら、近所合壁(かっぺき)みんな肺病患者で、悲しい哉、彼等の大部分の人達は他の一切を放擲(ほうてき)して治病を以(も)って人生の目的とする覚悟がなく、何かしら普通人の生活がぬけきれなくて中途半端な闘病生活をしていることが直ぐ分った。菱山よりも遥かに軽症と思われた人達が、読書に耽ったり散歩に出歩いたりしているうちに忽ちバタバタ死んで行った。治病を以て人生の目的とするというのも相当の大事業で、肺病を治すには、かなり高度の教養を必要とするということをさとらざるを得なかったのだ。
(引用ここまで)

円楽さんの闘病生活について私は知る立場にはないので、この話はあくまで推察の域を出ません。ただ、それくらい今斃れるには惜しい才能を亡くしたという絶望感が強く、何とかならなかったのか? と他人ながら思ってしまったのです。

私たちも病気との付き合いは大小いろいろあると思います。その中で、お医者さんに安静と言われた場合はある程度今までの生活を投げ出しても病気を治すことに専念することが大事ではないのかと改めて思った次第です。常に自分の体に自信を持っている方であっても、お体を大切にして再び健康な体を取り戻すまでは病気の快癒を目指していただきたいと思います。故人のご冥福をお祈りいたします。

一個人の起こす暴挙は防ぐことが難しいからこそ考えたい今後の色々なこと

2022年7月8日の午前11時半ごろに奈良県で起こった元安倍晋三首相に対する銃撃事件は、まさか日本国内でこんな事が起こるのかと第一報を聞きた時には絶句してしまいました。その後、安倍氏の訃報が入ってきました。極めて残念です。心よりお悔やみ申し上げます。

今回の実行犯がどんな考えで襲撃したのかはわかりませんが、どんなに社会に影響力を持つ人物だとしても、個人を暴力でもって排除していいわけはありませんし、それによって世の中が変わるということもそこまで考えられません。無念にして道半ばで前途を閉ざされた人物がいても、その代わりにその人の考えを引き継いで行く人はいるわけで、そうして続々と登場してくる人たちまで全て排除することは不可能だからです。

ただ、海外で色々な無差別テロであったり銃の乱射事件が起こっても、日本ではそんな事は起こらないだろうと思っていた方も少なくないと思います。ニュースでは、現場での警備体制について批判的な話もすでに出てきていましたが、守る対象ができるだけ有権者に近づきたい選挙期間中に、今回のような事前にマークされている団体ではなく一個人が自分の考えで起こした行動というのは予防することも、阻止することも難しいものだと思います。

それは、とある宗教団体が起こした地下鉄サリン事件が起こった時にも感じました。多くの人たちの考えを超えたところで、計画が実行に移されたわけですが、その時も公安警察は過激派のマークや警戒は行なっていても、人の生を説く宗教団体がまさかそんな事を行なうとは思っていなかったでしょう。地下鉄を狙った事件の前に長野県松本市で起こったサリン中毒事件については明らかな誤認逮捕が行なわれていますし、事件が起こってはじめて対策がはじまるようなことになるのはある程度仕方がないことです。そういった中で私たちは自分自身を守る行動を考えなければなりません。それは本当に難しいことです。

今回の事件で使われたという手製の銃は、特別な組織から譲り受けた可能性ももちろんあるものの、インターネット上で誰でも入手できる情報を使って自分自身で作ることも現状では可能になっています。さらに、その性能を確認するために山にこもってテストをしていても、いわゆるYouTuberのようにカメラを使ってその様子を記録しながら行動していれば、まさか手製の銃を使って殺傷能力のテストをしているとは、よほどの知識がある人でないと見極めるのは難しいのではないでしょうか。当然、事前に何の問題(前科など)も起こしていないなら、警察にとってはその挙動を察知・マークし、犯罪を未然に防ぐような行動もやりにくいと思います。国内ではほぼ全員の人たちがスマホを持ち、インターネットから情報を取ることができる世の中で、どこからどんな人がこれから出てくるのかというのは、正直言ってわかりません。今後同じような事件が起きたとしても、それを防ぐことは難しいと思われます。

だから大切なのは、暴力的に状況を改善することは意味がなく、話し合いである程度解決できるような「実例」の獲得を目指して、今の世の中を変えていくことではないかと思います。様々な考えを持つ個人個人の細かい社会への要望を聞いていてはキリがないという考えを持つ方もいるかも知れませんが、生活に困窮している人たちの状況を、政治の力で解決できることはできるだけ行なうことで、暴力を伴わなくても現状を変えられるということを多くの人にまずは実感させて欲しいと思います。

最後に、このブログのテーマである車中泊関連について書きますと、恐らくこの事件の影響によって、車中泊やキャンプをソロで行なおうという方にとっても、その行動に影響が出てくるのではないかと思います。山の中や人のいない海辺で何かやばいこと(テロの準備?)をしているのではないのかと、単にその場所で野営をしているだけなのに、必要以上に地元の人に気にされないように、現地では挨拶など地元の人と積極的にコミュニケーションを取ったり、現地の物を購入したりなどしながら、地元でさらに厳しくなるであろうローカルルールをきちんと守って、自分だけでなく周りも幸せになるような旅をするようにしていきたいものであります。

古谷三敏さんは大人がさり気なくウンチクを語るところに魅力があった

先日、漫画家の古谷三敏さんの訃報が入ってきました。漫画家としては現役で、これまでも「BARレモン・ハート」を連載中でした。この方は元々は手塚治虫さんのアシスタントをされていて、その後に年も近いからと赤塚不二夫さんとの共同作業(ブレーンとして赤塚さんの作品の作成にも関わっている)の中でご自身の漫画も出し、「ダメおやじ」や「手っちゃん」は雑誌掲載と同時に読んでいたものの、そこまでその時は夢中になって読んだわけではありません。

私がじっくりと古谷さんの漫画を読むようになったのは落語家についての楽屋話をじっくりと描いた「寄席芸人伝」からです。人物評伝が基本ですが、噺家の生きざまというのは漫画で描かれているからある程度はソフトに伝わるものの、自分が全く経験することのない世界の話がすっと入ってきて、読んだ後に何かしらの爽快感を感じる「大人のウンチク」が満載でした。

その後、「BARレモン・ハート」もかなり読みましたが、この漫画は「寄席芸人伝」のように酒にまつわるウンチクを散りばめながら、その中で登場人物の人間模様も落語の人情噺のように描かれていて、ドラマを楽しむだけでなく、純粋にお酒についての知識を得ることができる、とても実用的な漫画でありました。

私の世代というのは、大学生で成人に達したらコンパで一気飲みをして急性アルコール中毒で悲惨な事になるような飲み方を一部の人がしているような時代でした。サークルのコンパでは上級生が下級生を酔い潰すために、とにかく酒であればいいというような安い日本酒を一気飲みさせるようなところがありまして、私自身日本酒はしばらく匂いをかぐのも嫌でした。

ところが、この漫画を読むようになって、ウィスキーなどの洋酒の世界を知り、じっくりとお酒の味を楽しむことを知りました。漫画ではBARの話なのでどうしても洋酒が中心にはなるものの、連載の経過とともに日本酒や焼酎も出てくるようになり、ようやく飲まず嫌いだった日本酒にも美味しいものがあるということも、教えてもらえるようなところがありました。

漫画の中で古谷さんは決して強くメッセージ的にウンチクを語るのではなく、まさにBARで飲むマナーを教えるかのごとく、これから色んなお酒を飲みたいと思っている人に、お酒選びのヒントを与えてくれました。私自身この漫画から知ったお酒は多いですし、漫画を読むだけでなく、そこから実際に銘柄を飲んでみて、やはり古谷さんは本当にお酒が好きなんだなあと感じさせてくれる、まさに二度楽しめるようなところがありました。

そして、衛星放送のBSフジで「BARレモン・ハート」がドラマ化されるという話を聞き、シーズン1から見ているのですが、若干お酒の宣伝臭さを感じたものの、キャスティングには忖度なくかなり見ごたえがあって好きなドラマでした。現在はシーズン1がアマゾンプライムビデオで見られるようになっているので、改めて今回の訃報を聞きもう一度見てみました。

なかなか今の時代はゆっくりとBARでお酒を楽しむこともできずらいですが、ここしばらくは古谷さんのご冥福を祈りつつ、家での晩酌にドラマを合わせながらゆったりとした時間を愛でたいと思います。

スタジオミュージシャンは数々の音源を残すが 改めてライブの大切さについて想う

最近はなかなか車に乗る機会でもないとじっくり腰を落ち着けて音楽を聴く機会が無くなってしまいましたが、多くのジャンルを聴く中でより多く聴くジャンルは演奏中心のジャズをよく聴いていました。

ボーカル入りでなく演奏だけというのは慣れないうちはなかなか良くわからず、特にジャズのアドリブなどというものは、当時の流行した曲を聴いている耳には最初よくわからなかったのですが、当初は修行のようなつもりで何回も聴き込むうちにその違いや良さというものがわかるようになり、演者の演奏の差やテクニックの凄さというものも多少はわかるようになりました。

ジャズの世界では多少は名が知られている人であっても、それだけで生活をしている人はほんの一握りで、多くのミュージシャンは副業で食べていたと思います。それは音楽とは関係ないアルバイトだったりすることもありましたが、やはり技量のあるミュージシャンであれば音楽スクールの講師をしている人もいましたが、そうではなくあくまで音楽を演奏することで稼ぐ手段として、ジャンルを問わずスタジオミュージシャンとして多くのCD制作に関わったり、歌手のコンサートでのバックバンドをかけもちしたりする方も多くいました。

そんな中、私が今回紹介したい村上“PONTA”秀一さんの演奏と出会ったのは、サックス奏者の坂田明さんがグレイス・ジョーンズさんとSEIKOのコマーシャルで共演し「蕨Time!」と叫んでいた頃、その音楽を担当されていた坂田明さんのグループに参加しているレコード(まだCDの時代ではありませんでした)でその音楽を聴き、その名前を存じ上げるようになりました。

その後、たまたま学生時代に学園祭に来た女性アーティストのバックバンドの中にPONTAさんの名前を発見し、同じくジャズ好きな友人と一緒に見に行ったのですが、その時には女性アーティストさんには悪いと思いつつドラムの方ばかり見ていて、初めて生で見たPONTAさんのテクニックには大変感激し、それ以降レコードやCDではわからない音を感じるために積極的にライブに通うようになったきっかけを与えてくれた人の一人ではないかと今になって思います。

当時は、夏にはロックだけではなくジャズフェスティバルも数々行なわれていて、そうした所でもお見掛けし、また東京に出た時に誰かのライブのメンバーとしてドラムを叩いていたPONTAさんの姿も見ています。どちらかというと狭いスペースの方が演者の息づかいまで感じられるため、学生時代は食費をけずってライブに出掛けていましたが、現在はさすがに息づかいを感じられるようなライブを見に行くことは不可能なので、その点ではとても残念です。

その村上“PONTA”秀一さんの訃報が入ってきたのには本当にびっくりしました。70才という年齢はまだまだ演奏で私たちを楽しませてくれるだけのものであると思いましたし、急なお別れに、あわてて手持ちのCDをずっと聴いていました。

ミュージシャンはスタジオミュージシャンと言えども、ネット上にはかなりのデータがそろっていますし、そこから紐解いてYouTubeから実際の演奏を画面と音とで見ることもできますし、機材を揃えてCDで聴けば、まるでその場で叩いているような臨場感を持ってその人の音をずっと感じることもできます。ただ、やはり目の前で実際にその人の演奏を見て感じるということは大切だと思います。昨日はCDの音とともにテレビ画面に映した実際の演奏も沢山見ましたが、やはり現場で演奏を見ることができると、小さいライブハウスなら演奏後の雑談を聞いてその人が本当はどんな人なのか感じることもできますし、こちらから声を掛けて話をすることもできるかも知れません。

最近はバーチャルな体験に慣れてしまっていますし、実際の演奏を臨場感まで記録する方法も考えられていることも知っているのですが、それでもできれば実際に演奏している姿を見ながら感じたいと思わせてくれた私とPONTAさんの出会いがなければ、ここまで変わらずに音楽への興味を保ち続けていたか疑問なので、ライブの面白さということを多くの人に知らせ、ライブを楽しんでもらいたいと改めて思います。ライブハウスを運営されている方のご苦労は本当にお察しします。本来は音楽・演劇のような文化事業というのは政府がその規模に関係なく援助していく必要があるのではないかと思っているのですが、最近は飲食店という括りでの話はあるものの、具体的に映画・芝居・音楽をどう守っていくのかの話が出てこないのが残念です。

たまたまではありますが、私の住む静岡市でも今月いっぱいでそれなりに頑張ってきたジャズライブハウスが営業を終了するということを聞き、個人の力ではどうにもできない悔しさを感じます。村上“PONTA”秀一さんのご冥福をお祈りするとともに、今後も音楽のライブを楽しめる環境が無くならないよう色々と考えていきたいです。

志村けんさんが「発明」した意外なもの

新型コロナウイルスが陽性になって入院していたタレントの志村けんさんが2020年3月29日深夜にお亡くなりになりました。過去に肺炎の手術をされた事もあったということで、改めて新型コロナウイルスの怖さというものを感じざるを得ません。志村さんは2020年を迎えるにあたり、山田洋次監督が撮る映画の主演とNHKの朝ドラに出演するという、コメディアンから俳優へのチャレンジをされ、さらにオリンピックの聖火ランナーに選ばれるなど、人生にとって大事な年と認識していたに違いありません。

つまり、今回の新型コロナウイルス感染については志村さんご本人が一番悔しかっただろうと思えるくらい突然だったということになります。今回の入院報道が出た直後にスタジオ収録した過去の恋人のその後を紹介するテレビ番組に出ているのを拝見しましたが、その収録日は2020年3月10日で、翌週末の21日にはもう意識がなかったという報道があるので、ご本人も何がなんだかわからないうちに逝ってしまわれたということになるのではないでしょうか。

このような事例を見てしまうと、しばらく自宅で経過観察をしているあいだにどんどん悪くなってしまっていたのではないかという風にも思えてしまいます。志村さんの場合は過去に肺炎の手術を行っていたということもあり、なぜすぐ病院に行き肺の検査をすぐに受けられなかったのかとも思ってしまいます。志村さんがお亡くなりになったことは大変残念ですが、今回の報道を受けて多くの方が今以上に体調に気を付けるだけでなく、早めに意思の診断と検査を受けられるように関係者の方々は考えていただきたいですね。志村さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

今回はたまたま志村さんの過去の映像を見ている中、コメディアンとしての功績とは別なのですが、大変おもしろい功績だと思われることを発見しました。それは「8時だヨ!全員集合」がAmazonプライムで見られるのを知り、たまたま見た1981年2月7日 取手市民会館での収録の後半のコントでのことです。そのコントは仲本工事さんとの掛け合いで、西部劇によく出てくるバーのセットを使って決闘をするのですが、銃では決着が付かないので、「じゃんけん」で負けたほうが様々な液体をズボンの中に流し込まれるというものでした。この中のじゃんけんの結果は台本ではなく、本当に負けた人がひどい目に合うという流れなのですが、だからこそ露骨に後出しをしたのがわかったり、二人のタイミングが合わずにスムーズにじゃんけんができなければ、コントの面白さが損なわれてしまいます。

そこで、志村さんが開発されたと言われているのが(神楽坂の芸者がお座敷遊びでやっていた形式にヒントがあったとも)、タイミングを合わせやすく後出しも起きにくい掛け声「最初はグー!」だったというわけです。実はこの掛け声が誕生したのは打ち上げで飲み代を恨みっこなしでじゃんけんで負けた人に払わせるために(それまではパトロンの方が常に全額を払っていて悪いとおもったとのこと)、多少酔っ払っていてもタイミングがバッチリ合うように志村さんが考えたのだということです。

最初のコントでも、最後には「最初はグー!」と言って「パー」を出して相手に罰ゲームを押し付ける今もあるパターンで締めていまして、かなり仲間内でやり込んだ後に満を持してテレビで公開したという感じがします。このおかげでテレビのバラエティー番組だけでなく、私達が何かをじゃんけんで決める時にもスムーズに決めることができるようになりました。こんなにはっきりと「最初はグー!」の起源がわかるというのも面白いですが、そこには、テレビタレントとしての相当の勘が働いていたのではないかと思われます。コメディアンとしての志村さんのことを評価できない方もいるかも知れませんが、一世を風靡した人というのは、今回紹介したこと以外にも様々な逸話を持っていらっしゃると思います。今の世を生きるものとして、そうしたことは知った上できちんと人物を評価すべきだろうとしみじみ思います。

中村哲医師の「日本的なる援助」の評価とこれから

アフガニスタンに生きる人々への援助活動を地道に行なってきたペシャワール会の代表である中村哲氏が援助先において移動中、車に銃弾を浴び、帰らぬ人となりました。このニュースでは第一報として軽傷という話が出ていたので、本当にまさかということで訃報を聞くこととなってしまいました。

私自身とはもちろん接点はありませんが、中村医師の書かれた本は読ませていただいていて、現在に至るまでの援助の苦労ということはおぼろげながら知っていたこともあり、本当にこれからだった中村医師の無念さというのはとても大きいということはわかります。

世界各地では多くの生活が普通に行なえない地域があります。その理由は人種差別だったり内戦だったり、異常気象だったりさまざまですが、日本だけでなく世界ではそうした人に対する支援を様々な団体が行なっています。ただ、世界の各地では様々な宗教的・政治的な問題があるところがあり、こちらは援助をしたいのにできない所も多くあります。

例えば中国国内にある新疆ウイグル自治区では一部の報道で人権侵害が行なわれているという話がありますが、この地域は中国の国土であるため実際に援助に入ろうとしても内政干渉ということで中国政府から入国そのものを拒否されてしまうでしょう。さらに、この辺は実にデリケートな問題ですが、今回中村医師が犠牲になったアフガニスタンはイスラム教を信じる人々が暮らす地域です。そこへ、西欧諸国の援助団が入っていった場合、現地の人は「実は単なる援助ではないのではないか?」という疑念を持つ可能性があります。

というのも、ヨーロッパやアメリカの援助というのはキリスト教と結び付いた援助であることが多いので、はるか昔の十字軍の遠征の歴史もありますので、そもそも異教徒との接触を嫌がるケースや、この地でキリスト教の布教をするのでは? という疑念も出てきて敵対的な態度に出る人もいることでしょう。ただ、こうした事は日本でもあったことは日本史を学んでいれば出てきたことだと思うので、何事も性急に行なうことは良くないかも知れません。

日本にキリスト教を伝えたのはフランシスコ・ザビエルですが、カトリックのイエズス会の司教がザビエルに続いて多く来日し、日本での布教を行なう中で日本国内の筋目は変わっていきます。遠藤周作さんの小説で映画にもなった「沈黙」では、キリスト教の次には武力で日本を植民地にしに来るのではと危惧した豊臣秀吉から江戸幕府へと続く日本の指導者たちは、徹底的にキリスト教を禁じる政策を行ないます。今の時代ではキリスト教を布教してから攻めてくることはないでしょうが、キリスト教的な考え方が蔓延することで、今まで作ってきたイスラム教的な社会が崩れてしまうと危機感を覚える人というのは多くおり、その辺が援助する国によっては限界になってしまうことはあったといいます。

中村医師はとにかくそうした宗教的な影を出さないように気を付けながら、当初は医療援助という形でアフガニスタンに入っていきましたが、医療援助だけではこの国の根本的な貧困を解決することができないことに気付きます。そこで次の展開として行なったのが井戸を掘り水路を通し、砂漠だった土地を緑に変え、地域の人々の生活の安定を目指した途方も無い社会インフラ整備のための援助にと舵を切ります。ゆくゆくは自分達は手を引いて現地の人たちだけでやれるようにするための環境づくりをしている中で凶弾に斃れてしまったわけで、まだ道半ばでその後のアフガニスタンの姿を見ることができないとは、本当に無念だと思います。

果たして誰が中村医師を襲ったのかということはまだこの時点ではわかってはいませんが、あれだけ宗教色を無くした援助をしていたペシャワール会の活動を考えると、その援助の姿をよく理解しないまま、自分のエゴで襲った勢力にやられてしまったのかなとも思えます。今回の事件が起きた際、すぐさまタリバンが「自分達のやったことではない」というメッセージを出したことが象徴的に感じます。もしかしたら本部の制御が効かない下部組織の一部の人がやってしまったという可能性はあるものの、タリバン本部でも恐らく中村医師のやった事は評価されていたのだろうと思えるからです。

中村医師は、宗教的なものもそうですが、ボディガードは付けるものの武力を盾にして活動をしたことは全くないということも多くの人に理解していただきたいところです。当然、日本政府からの援助もなく、ペシャワール会の活動に賛同した有志の方の寄付で活動をされていました。今回の事件を受けて犯人を許さないという気持ちにどうしてもなってしまいがちですが、過去に会の活動で現地に出掛けていた青年が撃たれた時も、自分は一人現地に残ってその後も援助活動を続けて中村医師の活動を考えると、これでアフガニスタンから撤退してしまうという選択はされないと思います。ただ、今後のアフガニスタンの状況を見ていくと、継続する援助の難しさというものも感じてしまうのです。
以前は全く何もなかった場所に水が通り砂漠が農地になっていく中、その土地の値段が上がることでさらなる欲を人間は持ちます。日本でも同じような事で醜い争いが起きるわけですから、豊かさを独占したい人と未だ持たざる者との間をどのように埋めていくのか、それはアフガニスタンだけではなく現代の日本社会の課題でもあるわけですので、単純な正解というものはあり得ないでしょう。

今回の事件というのは、援助によって豊かになりつつある地域に起こる地域や個人のエゴがぶつかる小競り合いの中、その象徴的な存在であったペシャワール会が狙われた事件だと思っています。事件の背景を今後分析する中、中村医師がその中にいないのは残念ですが、今後はどのような援助を継続していくのがベターなのか、多くの人を巻き込んで考えていくことが大事ではないかと思う今日このごろです。