時代とともにスポーツの指向も大きく変わり、昔は当り前だった国内プロ野球の中継は地上波からほぼ無くなり、日本のスポーツ中継の初期から実況生中継がされてきた高校野球でさえ、ネット同時配信の動画は権利の関係でNG(ラジオの実況は大丈夫だとか)になり、さらに多様化する指向に合わせるように、誰もが野球に注目するような時代ではなくなってきました。
ただ、昔の影響で野球好きを引きずる私としては、車で全国各地を回る中で、様々なスポーツ、特に高校野球で有名な場所に来ると、こんな地域で練習して全国大会に出てくるんだとしみじみしたことを思い出します。これはどこの高校かは言えませんが、全国から選手が集まる甲子園の常連校の近くを車で通過していた時、このような場所にあると練習が嫌いだからと逃げ出してきても、一本道でしばらく全く民家もないような場所に学校があるので、少々の事では逃げられない大変な環境に身を置いているのだとしみじみ思ったものです。
知らない人は全く知らないでしょうが、昨日行なわれた夏の甲子園決勝の興味として「真紅の大優勝旗が白河の関を越えるか」というものがありました。そもそも「白河の関」とは何かもわからない方がいると、全く何の事かもわからないわけですが、私自身この白河の関を越えたのが車での最初のロングドライブだったことで、その意味というのは頭の中だけではなく実際の大変さということでも記憶しています。
最初の車旅ではお金がなかったので、車での移動はしても高速道路に乗るだけの予算はなかったので、東京を通って岩手県の遠野を目的地にしていたのですが、走っても走っても関東を抜けられないような感じで運転してきました。ようやく県境を越え、東北地方の入口である福島県に入る目印が「白河の関」なのです。ちなみに、宮城県の地方紙の名前は「河北新報」ですが、この「河」は白河に由来し、「白河より北の東北地方」という意味で名前にしているそうです。
いわゆる夏の甲子園は大正時代(1915年)からその歴史が始まり、第一回の優勝候補は東京代表の早稲田実業だったそうですが、準決勝の相手が東北代表の秋田中学(現在の秋田高校)で、前の日に選手たちはチーム関係者から秋田とは実力差があるから勝てると言われたため、選手は準決勝をのんびり気分で進め、結果秋田の長崎投手に抑えられて敗退したという、今では考えられないような話が伝わっています。秋田は次の決勝で負けて全国優勝はならなかったのですが、それからというもの長く甲子園で優勝までたどり着けない時代が続くのです。
これも古い話ですが、1969年の第51回大会では青森三沢高校が決勝に進出し、延長18回引き分け再試合の結果愛媛代表の松山商業に破れ、全国制覇には一歩届かなかったのでした。ただこれには「疑惑の判定」と呼ばれた三沢高校のサヨナラ勝ちを阻止したストライクボールの判定がありました。延長15回裏に1アウト満塁で押し出し寸前、3-1からの投球がストライクと判定されてその回三沢はサヨナラならず、結果その試合は引き分けで翌日の試合で松山が勝ったわけです。
当時はそこまで大きな問題にもならなかったものの、その後も東北代表の高校は決勝には進むもののことごとく負け続け、アメリカで言われている「○○の呪い」(かつてアメリカ大リーグのワールドシリーズに関して言われていたボストン・レッドソックスの「バンビーノの呪い(ベーブ・ルースを放出してからワールドチャンピオンに長いことなれなかった)」、シカゴ・カブスの「ヤギの呪い(カブスファンがヤギをワールドシリーズの行なわれる球場に入れようとして断られたためカブスは今もワールドチャンピオンになれない)」など払拭されたものされないものがあります)に近い「甲子園の真紅の大優勝旗は白河の関を越えられない」という話が現実味を帯びる時代がずっと続いていたのです。当初は冬には雪の影響で練習できないからという事が言われたものの、室内練習場が整備される中、雪が降るから勝てないということでもなくなったのに(東北より先にさらに北の北海道から優勝チームが出たわけですし)、ジンクスだけが生きていたということになるでしょうか。
今の高校生がそうした「呪い」のようなジンクスをまともに信じることもないとは思いますが、東北地方の野球関係者としては待ちに待った昨日の仙台育英高校の優勝でした。本当におめでとうございます。昔の高校野球は絶対的なエース一人にずっと投げさせるような根性論主体の考えで動いていましたが、今では投手の球数制限ができ、延長も決着が付かなければ国際ルールと同じように「タイブレーク制」で行なわれるようになりました。そんな中仙台育英高校は他チームではエース級の投手5人を揃え、決勝でもベストパフォーマンスを出す投手の継投で乗り切りました。相手チームのデータに沿って守備位置を変えるなどベンチワークも機能し、勝つべくして勝ったと私など思いますが、今回の大会は下馬評通り優勝候補筆頭の大阪桐蔭高校が優勝するんだろうなと思っていたので、この結果は予想外で、結果準優勝に終わったものの下関国際高校の力強さも印象に残りました。
ただ、やはり連戦を勝ち抜くには少なくとも3人以上試合で投げられるピッチャーを育成しないと、今後全国優勝は難しいのではないかと思います。ちなみに、私の住む静岡県は一応夏の甲子園大会の優勝はあるものの、最初で最後の優勝は大正15(1926)年の第十二大会で優勝した静岡中学(現在の静岡高校)まで遡らなければなりません。当時は台湾・朝鮮(当時の地域名)・満州(同)からも遠来の出場校がある時代で、戦後にはそれなりに甲子園で勝てる時代もあったのですが、近年は全く精彩がありません。これは、逆に東北地方のレベルが上がっていることとも関係があるのでしょう。
サッカーのJリーグもそうですが、地元のチームが活躍すれば地域が盛り上がるということもあるので、いわゆる首都圏や大都市のチームだけでなく地方のチームが活躍するような事もあると面白いですし、スポーツで活躍したチームのある場所はどんなところだろうと思って出掛けたくもなります。今回は宮城県の皆様および東北地方の皆さん、おめでとうございました。機会があれば東北の強豪校付近を回る車旅というのもやってみたいものです。