東京オリンピック2020開会式を直前にしてその音楽を担当する小山田圭吾氏の過去の雑誌でのインタビューが物議を呼んでいます。この話題で、たまたまテレビを見ていたら爆笑問題の太田光氏が、その当時の時代的背景があってのものであるというような擁護を展開していましたが、その言葉を聞いて私自身思い出したことがあります。
現在手元に雑誌がないので正確な記憶に基づかないため雑誌の詳細についてはお伝えできませんが、当時小山田氏が在籍していたフリッパーズ・ギターをはじめとした当時の音楽についてアーティストを取り上げている雑誌があり、当時お目当てのアーティストのインタビュー記事があったので購入したのですが、その雑誌の編集後記に読者が投稿した編集部批判の内容の手紙を取り上げていたのですが、そこで語られていたのは内容についての話でなく、そのお便りの主が群馬県から手紙を送ってきたことを揶揄したやり取りでした。
映画「翔んで埼玉」で出てくるようなフィクションの元というのは、かなり露骨に関東の中でも北関東や千葉をさげずんだり、同じ東京でも車のナンバーで露骨に差別まがいの言動を行なうなど、「田舎者」と他者を貶めることによって自分の存在価値を得るような思想というものがその時代あり、一部のメディアでも容認されたいたことは確かです。
ただ私自身そうした媒体を見るにつけ、自分の事は棚に上げてその人の出身地域をあげて露骨に差別するような事は侮蔑の対象でしかなく、当時その雑誌を購入してしまったことを悔やんだ記憶があります。
ただ、そうした表現者の人間性とその人が作る音楽とは分けて考えるべきだという風に自分は思っています。人間性の内容は違いますが、過去好きでよく聴いていたミュージシャンは実に素行が悪く、情報紙に掲載されているライブハウスでのライブをすっぽかすのは当り前くらいの事をやっていたのですが、私を含むファンの多くは、調子が良く良い演奏をしてくれることを願ってライブハウスに通っていた人もいたと思います。
また、聞いていてとても耐えられないような内容を表現していたとしても、表現の自由という観点から出すことそのものを止めさせることはこれだけネット上で発表の機会(自由公開ではなく限定配信という方法もあるので)がある中、完全に無くすことは無理だと思います。問題は、そうした表現の自由に守られて多くの音楽活動をされる人がいる中で、日本全国そういった細かな事情を知らないような人も見ている中、東京オリンピックに関する楽曲の依頼を小山田氏にした側の問題が大きいと思います。
恐らく、今回の依頼に関わった人たちも当時のカルチャーの真っ只中にいて、そこで過去の自分の行動を楽しい思い出として昇華してしまったのではないかと私には思えます。大臣が言うように決して小山田氏について過去の雑誌媒体での発言を知らなかったのではないでしょう。特に今回のオリンピックはスポーツに政治が介入することを疑問視する人がいる中、もしアーティスティックなオリンピックのイベント演出や音楽なども政治と密接に関係する中で決まっているのだとしたら、今回もし開会式が行なわれるなら個人的には期待してワクワクすることはあまり無くなってしまうような感じがします。
逆に、そうした他人からの介入とは関係なく活動しているアーティストの作品にこそ、私自身の興味は向きます。本来はそうした半ば過激な表現をするアーティストを守ることこそ政治の世界が行なわなければならない事だと思うのですが、こうした点から言っても世の中は変な方向に回っていってしまっているということを感じざるを得ません。