高校野球の歴史を変えた選手としても記憶されるべき坂東英二氏を悼む

日本の高校野球というのは色々なスポーツが広まりつつある中も、依然として全国大会がNHKのテレビ・ラジオにより全国中継され、その注目度の高さが際立っています。日本という国とアメリカ発祥のBaseBallがどう合ったのかわかりませんが、当時の職業野球(プロ野球)よりも人気のイベントであったことは確かです。

野球はサッカーのように時間制限があるスポーツではなく、3アウトになるまでの時間制限はなく、アメリカの大リーグでは今でもポストシーズンの試合については延長戦はタイブレークもなく無制限に行なわれます。2025年のワールドシリーズ、ドジャーズ対ブルージェイズの延長18回という熱戦は今後も起こり得ます。むしろもっと長い延長戦が行なわれるかも知れません(米大リーグでの最長延長戦は26回です)。

しかし、現在の日本の野球については世界的なタイブレークの導入とともに延長戦が続かないようになり、プロ野球でも回数に制限を持たせ、長い回の延長戦が戦われることは皆無となっています。

話を高校野球に戻すと、当初は延長戦は無制限に行なわれる(日没など止むを得ない場合を除く)で行なわれていましたが、大正15年(1926年)の第12回大会・準々決勝の静岡中(現・静岡高校)対前橋中(現・前橋高校)との延長19回での決着があり、ちなみに夏の大会の静岡県勢はこれ以来100年優勝から遠ざかっています。

その後、有名な中京(現・中京大中京高)対明石(現・明石高)の延長25回(昭和8年・1933年)が大会最大の延長戦となりました。当時は日中戦争の影響なのか選手の健康よりも長くやり抜く精神の方に光があたったのか、その時点では延長戦の回数制限という話は出ませんでした。

ようやく延長戦の回数制限が出たきっかけとなったのが昨日訃報が出た当時徳島商業のエースで4番だった坂東英二さんのあまりにも回数を投げ続けている姿だったのです。1958年春季四国大会での一回戦(出場校が少ないので実際は準決勝)で高知商と延長16回を戦い、決勝の高松商戦では何と延長25回を一人で投げ抜くというとんでもない試合を続けたのです。

これは坂東選手の投手としての圧倒的な力量はあったものの味方打線が打てないからということもあったのかも知れません。当時の関係者の間では、さすがにこのまま高校野球の延長戦を無制限にしたままでは、坂東選手の命にかかわるのでは? と危惧する人たちもいたのかも知れません。その年から高校野球の延長戦は18回まで行なったらそれ以上行なわず、引き分け再試合にすることが決まったのです。

で、その適用第一号となったのも坂東選手が投げた試合で、その年の夏の大会の準々決勝、徳島商対魚津高の試合になりました。もし春の四国大会で坂東選手が普通に投げて勝っていたら、果たして甲子園での延長はどこまで伸びてしまったのか? という風にも思えますが、この世に坂東英二という人間が生まれなかったら高校野球の記録は今とはかなり変わってしまっていたかも知れません。投手二人(それ以上)を継投させることが当り前になれば、米大リーグのように、無制限の延長は続いていたかも知れません。

ちなみに、硬式ではなく軟式まで範囲を広げると、高校野球の最長記録は当日延長45回でサスペンデット、翌日行なわれた再開試合で50回まで行なわれた中京高校(岐阜)対崇徳高校(広島県)の試合があります。

坂東英二さんはタレントとして活動した時期が長く、もしかしたら野球選手であったことすら知られていないような状況ではありますが、長い高校野球の歴史の中では重要な歴史的瞬間を後押しした記録にも記憶にも残る選手であったと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。

カテゴリー: おくやみ | 投稿日: | 投稿者:

てら について

主に普通の車(現在はホンダフィット)で、車中泊をしながら気ままな旅をするのが好きで、車中泊のブログを開設しました。車で出掛ける中で、モバイルのインターネット通信や防災用としても使える様々なグッズがたまってきたので、そうしたノウハウを公開しながら、自分への備忘録がわりにブログを書いています。

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