スマホは単なる道具であるという認識を

 長野県にある信州大学の入学式で、学長の先生が新入生に対して行なったスピーチが話題になっています。ある意味こうした流れに乗っかって関連することを書くこと自体、ネットの流れに踊らされている気もしますが(^^;)、さまざまな意見にはうなずけるものもそうでないものもあってまとめるのが難しいですね。

 私がまず問題だと思うのが、ネット記事を書きアップする際に、スピーチ全体の趣旨と多少違うところがあっても、どうしても過激なキーワードを入れながら読む人へ印象付けることが行なわれることがあることです。今回もスピーチの中で「スマホやめますか、信大(信州大学)生やめますか」という、まるで「スマホ=覚せい剤」のように、持っているだけで駄目なもののように語られている(もちろん、スマホ依存症の人にとってはその等式は成り立つこともあるので話がややこしいのです(^^;))ので、それをセンセーショナルに報道することによって、賛否両論の意見が飛びかうことになってしまいました。まるで撒き餌に群がる魚のように、とんでもない数の意見がネット上にあふれ、収集がつかないまま最初に発せられた極端なキーワードのみが印象に残るようでは、また同じ騒動が違う人の発言がきっかけになって繰り返されるだけのように思います。

 個人的に思うのは、スマホ否定派の方々が危惧するようなスマホに依存する学生がいたら、学校側が強制的に取り上げ、勉強に集中させることはまず無理だろうということです。スマホの存在によって学業を含む日常生活に影響が出る場合は、アルコール依存症の治療と同じようにカウンセリングによってスマホとの付き合い方を考えていかないと、依存行動はなかなか止まらないでしょう。また、傍から見るといかにもずっとスマホをいじっていて遊んでいるように見えていても、そうではない場合もあります。これは、スマホを単なる勉強の邪魔をするゲームおよびSNS専用機ととらえるか、アプリを入れることでさまざまな用途に使えるマルチデバイスととらえるかによって見方は違ってくるでしょう。

 スマートフォンが日本の社会で一般的になった時期というのは異論があるかも知れませんが、2005年にウィルコムがW-ZERO3を出したことで始まり、2007年にアップルがiPhoneを出して以降に一般化したのではないかと思います。今年大学に入学した世代というのは、中学や高校に入って初めて携帯電話を持ってもいいと言われた際には、いわゆるガラケーオンリーではなく、すでにスマホにする選択肢があったでしょう。中高生がスマホを持ってやることと言えばゲームやSNSなどのコミュニティ、動画の閲覧あたりが主で、それ以外に使いこなすことはなかなか最初のうちは難しいのではないかと思います。だからこそ、冒頭に紹介した大学の入学式での言葉がニュースソースになるのでしょう。個人的には、スマホだけを意図的に取り上げて悪者のように捉えては欲しくないですね。最初から約束としてスマホ禁止の上で学校やクラブの寮に入るような場合は別にして、スマホを使い込んでくうちに自分の頭を使いながらその補助をスマホにやってもらうだけのスキルができれば、一昔前のスマホがなかった頃と比べてできる事は飛躍的に増えます。スマホがあればネットで入手できる情報は瞬時に手に入るわけですから、その点では時間の節約すら可能になるでしょう。

 今回の報道の中で、スマホ否定派の意見に憤慨した方は、逆に今後のスマホの使い方を考えてみることをおすすめします。スマホに単に時間を奪われているような印象を周囲に与えるような使い方は少なくとも人目に付くところでは控え、リアルな生活の中で面白いことをスマホを使って実現できると行動で示してあげれば、スマホに対する偏見を持つ人の認識も変わっていく気がします。そして以前にも書きましたが、スマホ依存症というのは家庭内や会社、学校などで集団生活をしている中で不具合が起こることで問題化されるという、普通の病気とは違った認識のされ方があるということも知っておきましょう。スマホに没頭しすぎたせいで会社や学校に行けなくなったり、家族の仲が悪くなればどうにかしてこの依存症を直してほしいと周りの人が思うでしょうが、全く他人と接触を持たない中で起きている時間ずっとスマホの画面に没頭してゲームにはまっていたとしても、だれにも迷惑を掛けなければ問題は表面に出てきません。しかし、だれからも気に掛けてもらえない中でスマホ依存症が進んでしまえばそれこそ本当の悲劇に繋がります。自分にとって本当に大切なものは何なのか、そんなことも考えながらスマホと付き合っていってほしいと個人的には思います。


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