ガラパゴス化は悪いこと?

 この文章を書いている2013年、「ガラパゴス化」という言葉がさまざまな用例で使われることになってきたように思います。先日紹介した、日本国内で使われている言葉を早めに掲載する事に特徴のある「三省堂国語辞典」にもまだ掲載のない言葉ですが、私が認識する限りでは、「ガラパゴス携帯」(実はこの言葉を略したものが「ガラケー」としてスマートフォン以外の携帯電話を指す言葉として既に市民権を得ています)のような使われ方が最初ではなかったかと思います。ガラパゴス諸島は、地球の歴史の中でも早いうちから外敵の侵入が難しい地理的条件のもと生物が進化してきたので、その地域だけ進化から取り残されてしまい独自の生物を生んだ島として、多くの人たちが知っています。そうした状況を、日本社会の独自の製品や慣習が世界標準とかけ離れているという事を揶揄して使われる事が多いようです。

 特に最近になって、日本の企業自体もグローバル化しなければ生き残れないなどと煽られる中、日本は周辺国の協調路線から外され孤立して大丈夫かという話の中で使われている場面も目にします。そのように煽られると、何か世界標準の方が全ていいのだという錯覚に陥りがちになりますが、私は必ずしも世界標準だから全ていいのだという風には思えないこともあります。異論があることを承知で言えば、現在の世界標準のパソコン用のシステムソフトウェアはWindowsだと思いますが、最近になってマイクロソフト社がWindows XPのサポートを終了させると発表したことでその問題点も指摘されています。そもそも、コンピューターウィルスの対策について、全てマイクロソフトという会社に丸投げするのではなく、広く情報を公開・共有してユーザーの側に立った日本生まれのシステムソフトウェア「トロン」を日本で普及させるべくトロンプロジェクトなんてのもあったのですが、もしトロンが世界標準になっていれば、少なくとも古いOSでもサポートはたとえそれが一部の有志の手によってでも細々とされていたのではないかと思うのですが。

 また、ガラケーがすでに時代遅れかというと、私はそうでもないと思います。普通の携帯電話に、それこそ今のスマートフォンのような機能を詰め込みすぎた事で、とんでもない価格になったりしておかしくなったのではないかと私は思っています。むしろ通話と簡単なウェブ閲覧にメール送受信くらいの機能が付いたくらいのもので十分実用になるわけですし、それこそその土地によって使われる機能に特化するような形で製品の内容を変えていけば、世界に受け入れられるものになったのでははないかと思います。私自身、今のスマートフォンはアプリを実行しすぎてフリーズ状態になった場合、緊急の電話を受けられるかというのが不安なのでガラケーとの2台体制にしていますし、今後を考えても「キッズケータイ」や「らくらくホン」のような特化したものでも、十分世界に向けて売っていけるものに仕上がっていると思うのです。

 このように例を出すときりがありませんが、ガラパゴス化と指摘され世界標準から乖離したとされる技術というのは、本当に日本のユーザーのニーズを調査して作られたのかという事も検証する事が大事だと思います。昔から私もそうだったのですが、日本のユーザーの多くは、たとえそれが使うかわからないものであっても、色んな装備がこれでもかという風に付いた製品をありがたがるという事は確かにありました。実際そうした製品が売れたのでメーカーも勘違いをしていたのかとも思えなくもないのですが、これからはしっかりとニーズを把握した上での商品開発が求められるようになって来るでしょう。そうして十分にニーズを充足するものができたとしたら、私は決して世界で売れない製品になることはないような気がするのですが。

 更に個人的に気になることは、ガラパゴス化指摘によるグローバル化の進行の度が過ぎると、今まで日本で息づいている伝統の技術をつぶしてしまいかねないという問題があることです。はたからみると地方の一産業でしかないと思われるものでも、その地に根ざして技術の伝承が続いているものならば、改めてその良さをさぐってみる試みも必要になってくるのではないでしょうか。地方からもしそうした産業が消えてしまったら、たとえそれと引き替えにグローバル企業の大きな工場がやってきたとしても、状況の変化で撤退されたらそれまでです。車中泊の旅で日本全国を訪れる中、人工的な廃墟を目のあたりにするというのはつらいものです。今後も暇を見つけては全国各地をウロウロすると思いますが、他の場所では決して見られないその土地独自のものを色々と見付けていきたいと思っています。


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