おくやみ」カテゴリーアーカイブ

日々の訃報の中から自分の記憶に残したい人について書いていくことで故人を偲びたいと思います。

自ら年賀状のやり取りをストップすることで起こってくる問題について

昨日のテレビのワイドショーでも、今後年賀状のやり取りを自ら止めてしまう「年賀状じまい」の具体的なやり方について特集的に取り上げられているのを見ていました。

時代はスマホ同士で連絡を普通に取るのが当り前となり、私自身もよくお付き合いがあって実際にお合いする方とは、今やメールではなくLINEのようなSNSを通じて連絡を取り合っています。そうした付き合いがほとんどだろうと思われる中・高校生であれば、あえて年賀葉書を一枚一枚書いて(あて名から)投函するような手間は非効率的と思うでしょうし、動画でもメールやSNSで送り合った方が合理的だと思います。

しかし、常に実際に一年を通じて頻繁にお会いできる人とだけつながっているわけではありません。それでも、大概の方がメールの他、フェイスブックやツイッターなどでアカウントを公開しているので、そうした連絡を頻繁にするか、何かあった時にそのアカウントにメッセージを送れば、年賀状は必要ないのではないかという事を私も最近まで考えながら毎年年賀状を書いていました。ただ、先日一通のハガキをいただいたことで、ちょっとその考えがゆらぎつつあります。

そのハガキは、以前は付き合いがあったものの昨今は没交渉になってしまった年長の私の先生とも言うべき方の奥様から届きました。その方は長いこと人工透析を続けていたので健康状態はどうかと思いつつ毎年年賀状のご挨拶は欠かさなかったのですが、奥様からのハガキによると今年の四月にお亡くなりになった旨の内容が記されていました。

その内容が書かれたハガキを読みながら、わざわざ連絡を下さった奥様に感謝するとともに、今まで散々お世話になっておきながらそのご恩をなかなか返せなかった後悔というものもありました。ただ、そうした事実を知らなかったら今だに見当違いの想いをその方に対してしていたかも知れないと思うと、やはり自分と相手の方の付き合いに一区切り付けるために、形に残るものとして一年に一回でも連絡をしておくことは大事だなと改めて思うこととなりました。

若い世代の方でも、突然自分の身内(父母や祖父祖母)が亡くなった場合、本人がどういった人と仲良くしているのかというのはなかなかわからないものです。ご遺族の方はまずご本人の残した物について整理をすると思いますが、そこに毎年来ている年賀状を見て、こうして年賀状を出してくれている人との関係を考えることができます。当然、そうしたデータはご本人が使っているパソコンやスマホの中にも入っているとは思いますが、そうしたデジタル的なデータの解析というのは優先順位的には後回しになるのではないかと思います。さらに、パソコンやスマホにロックがかかっていた場合は、ご本人が事前にエンドノートなどで連絡をしてくれと書いてくれていないような場合は、なかなか知人・友人まで連絡が行くことは無いと思われます。

少なくとも私の場合は、過去にお世話になった方とはきちんとお別れをさせていただきたいと思いますし、新型コロナ関連? と思われる有名人の訃報も少なくないので、年が多い人から先に亡くなるということもありませんので、同年代の友人であってもかなり濃密なネット(SNSやメールなど)での付き合いがない人については、年賀状を出して自分の生存証明を出すとともに、何かあった場合の連絡先を常に更新することは続けていきたいと思っています。


三遊亭円楽さんの突然の訃報によって考えるべき「病気との付き合い方」

昨日、テレビのニュース速報のテロップを見てはっとしました。落語家の三遊亭円楽さんの突然の訃報でした。日本テレビ系「笑点」のレギュラー回答者として、円楽襲名前の「三遊亭楽太郎」の頃から活躍していた方で、72才という年齢は、落語家としてはまだまだやれる年齢であり、更に芸を磨いて私たちに素晴らしい噺を聞かせてくれるはずだったのにと思うと、本当に残念です。

2022年1月に脳梗塞を発症し、リハビリの結果、高座にも立てるようになったことは知っていたのですが、その後肺炎を起こしてまた休業となり、心配していました。報道によると死因は肺がんとありまして、脳梗塞になる前から肺がんの治療をしていたそうですが、どちらにしてもご本人はまだまだやれるという気持ちはあったのではないでしょうか。

今回の訃報を聞き、作家の坂口安吾さんのエッセイ「青春論」の一節を思い出しました。友人で詩人の菱山修三氏の実体験を語ったものですが、以下に引用させていただきます。

(ここから引用)
菱山の話によると、肺病というものは、病気を治すことを人生の目的とする覚悟が出来さえすれば必ず治るものだ、と言うのであった。他の人生の目的を一切断念して、病気を治すことだけを人生の目的とするのである。そうして、絶対安静を守るのだそうだ。
その後、僕が小田原の松林の中に住むようになったら、近所合壁(かっぺき)みんな肺病患者で、悲しい哉、彼等の大部分の人達は他の一切を放擲(ほうてき)して治病を以(も)って人生の目的とする覚悟がなく、何かしら普通人の生活がぬけきれなくて中途半端な闘病生活をしていることが直ぐ分った。菱山よりも遥かに軽症と思われた人達が、読書に耽ったり散歩に出歩いたりしているうちに忽ちバタバタ死んで行った。治病を以て人生の目的とするというのも相当の大事業で、肺病を治すには、かなり高度の教養を必要とするということをさとらざるを得なかったのだ。
(引用ここまで)

円楽さんの闘病生活について私は知る立場にはないので、この話はあくまで推察の域を出ません。ただ、それくらい今斃れるには惜しい才能を亡くしたという絶望感が強く、何とかならなかったのか? と他人ながら思ってしまったのです。

私たちも病気との付き合いは大小いろいろあると思います。その中で、お医者さんに安静と言われた場合はある程度今までの生活を投げ出しても病気を治すことに専念することが大事ではないのかと改めて思った次第です。常に自分の体に自信を持っている方であっても、お体を大切にして再び健康な体を取り戻すまでは病気の快癒を目指していただきたいと思います。故人のご冥福をお祈りいたします。


一個人の起こす暴挙は防ぐことが難しいからこそ考えたい今後の色々なこと

2022年7月8日の午前11時半ごろに奈良県で起こった元安倍晋三首相に対する銃撃事件は、まさか日本国内でこんな事が起こるのかと第一報を聞きた時には絶句してしまいました。その後、安倍氏の訃報が入ってきました。極めて残念です。心よりお悔やみ申し上げます。

今回の実行犯がどんな考えで襲撃したのかはわかりませんが、どんなに社会に影響力を持つ人物だとしても、個人を暴力でもって排除していいわけはありませんし、それによって世の中が変わるということもそこまで考えられません。無念にして道半ばで前途を閉ざされた人物がいても、その代わりにその人の考えを引き継いで行く人はいるわけで、そうして続々と登場してくる人たちまで全て排除することは不可能だからです。

ただ、海外で色々な無差別テロであったり銃の乱射事件が起こっても、日本ではそんな事は起こらないだろうと思っていた方も少なくないと思います。ニュースでは、現場での警備体制について批判的な話もすでに出てきていましたが、守る対象ができるだけ有権者に近づきたい選挙期間中に、今回のような事前にマークされている団体ではなく一個人が自分の考えで起こした行動というのは予防することも、阻止することも難しいものだと思います。

それは、とある宗教団体が起こした地下鉄サリン事件が起こった時にも感じました。多くの人たちの考えを超えたところで、計画が実行に移されたわけですが、その時も公安警察は過激派のマークや警戒は行なっていても、人の生を説く宗教団体がまさかそんな事を行なうとは思っていなかったでしょう。地下鉄を狙った事件の前に長野県松本市で起こったサリン中毒事件については明らかな誤認逮捕が行なわれていますし、事件が起こってはじめて対策がはじまるようなことになるのはある程度仕方がないことです。そういった中で私たちは自分自身を守る行動を考えなければなりません。それは本当に難しいことです。

今回の事件で使われたという手製の銃は、特別な組織から譲り受けた可能性ももちろんあるものの、インターネット上で誰でも入手できる情報を使って自分自身で作ることも現状では可能になっています。さらに、その性能を確認するために山にこもってテストをしていても、いわゆるYouTuberのようにカメラを使ってその様子を記録しながら行動していれば、まさか手製の銃を使って殺傷能力のテストをしているとは、よほどの知識がある人でないと見極めるのは難しいのではないでしょうか。当然、事前に何の問題(前科など)も起こしていないなら、警察にとってはその挙動を察知・マークし、犯罪を未然に防ぐような行動もやりにくいと思います。国内ではほぼ全員の人たちがスマホを持ち、インターネットから情報を取ることができる世の中で、どこからどんな人がこれから出てくるのかというのは、正直言ってわかりません。今後同じような事件が起きたとしても、それを防ぐことは難しいと思われます。

だから大切なのは、暴力的に状況を改善することは意味がなく、話し合いである程度解決できるような「実例」の獲得を目指して、今の世の中を変えていくことではないかと思います。様々な考えを持つ個人個人の細かい社会への要望を聞いていてはキリがないという考えを持つ方もいるかも知れませんが、生活に困窮している人たちの状況を、政治の力で解決できることはできるだけ行なうことで、暴力を伴わなくても現状を変えられるということを多くの人にまずは実感させて欲しいと思います。

最後に、このブログのテーマである車中泊関連について書きますと、恐らくこの事件の影響によって、車中泊やキャンプをソロで行なおうという方にとっても、その行動に影響が出てくるのではないかと思います。山の中や人のいない海辺で何かやばいこと(テロの準備?)をしているのではないのかと、単にその場所で野営をしているだけなのに、必要以上に地元の人に気にされないように、現地では挨拶など地元の人と積極的にコミュニケーションを取ったり、現地の物を購入したりなどしながら、地元でさらに厳しくなるであろうローカルルールをきちんと守って、自分だけでなく周りも幸せになるような旅をするようにしていきたいものであります。


古谷三敏さんは大人がさり気なくウンチクを語るところに魅力があった

先日、漫画家の古谷三敏さんの訃報が入ってきました。漫画家としては現役で、これまでも「BARレモン・ハート」を連載中でした。この方は元々は手塚治虫さんのアシスタントをされていて、その後に年も近いからと赤塚不二夫さんとの共同作業(ブレーンとして赤塚さんの作品の作成にも関わっている)の中でご自身の漫画も出し、「ダメおやじ」や「手っちゃん」は雑誌掲載と同時に読んでいたものの、そこまでその時は夢中になって読んだわけではありません。

私がじっくりと古谷さんの漫画を読むようになったのは落語家についての楽屋話をじっくりと描いた「寄席芸人伝」からです。人物評伝が基本ですが、噺家の生きざまというのは漫画で描かれているからある程度はソフトに伝わるものの、自分が全く経験することのない世界の話がすっと入ってきて、読んだ後に何かしらの爽快感を感じる「大人のウンチク」が満載でした。

その後、「BARレモン・ハート」もかなり読みましたが、この漫画は「寄席芸人伝」のように酒にまつわるウンチクを散りばめながら、その中で登場人物の人間模様も落語の人情噺のように描かれていて、ドラマを楽しむだけでなく、純粋にお酒についての知識を得ることができる、とても実用的な漫画でありました。

私の世代というのは、大学生で成人に達したらコンパで一気飲みをして急性アルコール中毒で悲惨な事になるような飲み方を一部の人がしているような時代でした。サークルのコンパでは上級生が下級生を酔い潰すために、とにかく酒であればいいというような安い日本酒を一気飲みさせるようなところがありまして、私自身日本酒はしばらく匂いをかぐのも嫌でした。

ところが、この漫画を読むようになって、ウィスキーなどの洋酒の世界を知り、じっくりとお酒の味を楽しむことを知りました。漫画ではBARの話なのでどうしても洋酒が中心にはなるものの、連載の経過とともに日本酒や焼酎も出てくるようになり、ようやく飲まず嫌いだった日本酒にも美味しいものがあるということも、教えてもらえるようなところがありました。

漫画の中で古谷さんは決して強くメッセージ的にウンチクを語るのではなく、まさにBARで飲むマナーを教えるかのごとく、これから色んなお酒を飲みたいと思っている人に、お酒選びのヒントを与えてくれました。私自身この漫画から知ったお酒は多いですし、漫画を読むだけでなく、そこから実際に銘柄を飲んでみて、やはり古谷さんは本当にお酒が好きなんだなあと感じさせてくれる、まさに二度楽しめるようなところがありました。

そして、衛星放送のBSフジで「BARレモン・ハート」がドラマ化されるという話を聞き、シーズン1から見ているのですが、若干お酒の宣伝臭さを感じたものの、キャスティングには忖度なくかなり見ごたえがあって好きなドラマでした。現在はシーズン1がアマゾンプライムビデオで見られるようになっているので、改めて今回の訃報を聞きもう一度見てみました。

なかなか今の時代はゆっくりとBARでお酒を楽しむこともできずらいですが、ここしばらくは古谷さんのご冥福を祈りつつ、家での晩酌にドラマを合わせながらゆったりとした時間を愛でたいと思います。


スタジオミュージシャンは数々の音源を残すが 改めてライブの大切さについて想う

最近はなかなか車に乗る機会でもないとじっくり腰を落ち着けて音楽を聴く機会が無くなってしまいましたが、多くのジャンルを聴く中でより多く聴くジャンルは演奏中心のジャズをよく聴いていました。

ボーカル入りでなく演奏だけというのは慣れないうちはなかなか良くわからず、特にジャズのアドリブなどというものは、当時の流行した曲を聴いている耳には最初よくわからなかったのですが、当初は修行のようなつもりで何回も聴き込むうちにその違いや良さというものがわかるようになり、演者の演奏の差やテクニックの凄さというものも多少はわかるようになりました。

ジャズの世界では多少は名が知られている人であっても、それだけで生活をしている人はほんの一握りで、多くのミュージシャンは副業で食べていたと思います。それは音楽とは関係ないアルバイトだったりすることもありましたが、やはり技量のあるミュージシャンであれば音楽スクールの講師をしている人もいましたが、そうではなくあくまで音楽を演奏することで稼ぐ手段として、ジャンルを問わずスタジオミュージシャンとして多くのCD制作に関わったり、歌手のコンサートでのバックバンドをかけもちしたりする方も多くいました。

そんな中、私が今回紹介したい村上“PONTA”秀一さんの演奏と出会ったのは、サックス奏者の坂田明さんがグレイス・ジョーンズさんとSEIKOのコマーシャルで共演し「蕨Time!」と叫んでいた頃、その音楽を担当されていた坂田明さんのグループに参加しているレコード(まだCDの時代ではありませんでした)でその音楽を聴き、その名前を存じ上げるようになりました。

その後、たまたま学生時代に学園祭に来た女性アーティストのバックバンドの中にPONTAさんの名前を発見し、同じくジャズ好きな友人と一緒に見に行ったのですが、その時には女性アーティストさんには悪いと思いつつドラムの方ばかり見ていて、初めて生で見たPONTAさんのテクニックには大変感激し、それ以降レコードやCDではわからない音を感じるために積極的にライブに通うようになったきっかけを与えてくれた人の一人ではないかと今になって思います。

当時は、夏にはロックだけではなくジャズフェスティバルも数々行なわれていて、そうした所でもお見掛けし、また東京に出た時に誰かのライブのメンバーとしてドラムを叩いていたPONTAさんの姿も見ています。どちらかというと狭いスペースの方が演者の息づかいまで感じられるため、学生時代は食費をけずってライブに出掛けていましたが、現在はさすがに息づかいを感じられるようなライブを見に行くことは不可能なので、その点ではとても残念です。

その村上“PONTA”秀一さんの訃報が入ってきたのには本当にびっくりしました。70才という年齢はまだまだ演奏で私たちを楽しませてくれるだけのものであると思いましたし、急なお別れに、あわてて手持ちのCDをずっと聴いていました。

ミュージシャンはスタジオミュージシャンと言えども、ネット上にはかなりのデータがそろっていますし、そこから紐解いてYouTubeから実際の演奏を画面と音とで見ることもできますし、機材を揃えてCDで聴けば、まるでその場で叩いているような臨場感を持ってその人の音をずっと感じることもできます。ただ、やはり目の前で実際にその人の演奏を見て感じるということは大切だと思います。昨日はCDの音とともにテレビ画面に映した実際の演奏も沢山見ましたが、やはり現場で演奏を見ることができると、小さいライブハウスなら演奏後の雑談を聞いてその人が本当はどんな人なのか感じることもできますし、こちらから声を掛けて話をすることもできるかも知れません。

最近はバーチャルな体験に慣れてしまっていますし、実際の演奏を臨場感まで記録する方法も考えられていることも知っているのですが、それでもできれば実際に演奏している姿を見ながら感じたいと思わせてくれた私とPONTAさんの出会いがなければ、ここまで変わらずに音楽への興味を保ち続けていたか疑問なので、ライブの面白さということを多くの人に知らせ、ライブを楽しんでもらいたいと改めて思います。ライブハウスを運営されている方のご苦労は本当にお察しします。本来は音楽・演劇のような文化事業というのは政府がその規模に関係なく援助していく必要があるのではないかと思っているのですが、最近は飲食店という括りでの話はあるものの、具体的に映画・芝居・音楽をどう守っていくのかの話が出てこないのが残念です。

たまたまではありますが、私の住む静岡市でも今月いっぱいでそれなりに頑張ってきたジャズライブハウスが営業を終了するということを聞き、個人の力ではどうにもできない悔しさを感じます。村上“PONTA”秀一さんのご冥福をお祈りするとともに、今後も音楽のライブを楽しめる環境が無くならないよう色々と考えていきたいです。


志村けんさんが「発明」した意外なもの

新型コロナウイルスが陽性になって入院していたタレントの志村けんさんが2020年3月29日深夜にお亡くなりになりました。過去に肺炎の手術をされた事もあったということで、改めて新型コロナウイルスの怖さというものを感じざるを得ません。志村さんは2020年を迎えるにあたり、山田洋次監督が撮る映画の主演とNHKの朝ドラに出演するという、コメディアンから俳優へのチャレンジをされ、さらにオリンピックの聖火ランナーに選ばれるなど、人生にとって大事な年と認識していたに違いありません。

つまり、今回の新型コロナウイルス感染については志村さんご本人が一番悔しかっただろうと思えるくらい突然だったということになります。今回の入院報道が出た直後にスタジオ収録した過去の恋人のその後を紹介するテレビ番組に出ているのを拝見しましたが、その収録日は2020年3月10日で、翌週末の21日にはもう意識がなかったという報道があるので、ご本人も何がなんだかわからないうちに逝ってしまわれたということになるのではないでしょうか。

このような事例を見てしまうと、しばらく自宅で経過観察をしているあいだにどんどん悪くなってしまっていたのではないかという風にも思えてしまいます。志村さんの場合は過去に肺炎の手術を行っていたということもあり、なぜすぐ病院に行き肺の検査をすぐに受けられなかったのかとも思ってしまいます。志村さんがお亡くなりになったことは大変残念ですが、今回の報道を受けて多くの方が今以上に体調に気を付けるだけでなく、早めに意思の診断と検査を受けられるように関係者の方々は考えていただきたいですね。志村さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

今回はたまたま志村さんの過去の映像を見ている中、コメディアンとしての功績とは別なのですが、大変おもしろい功績だと思われることを発見しました。それは「8時だヨ!全員集合」がAmazonプライムで見られるのを知り、たまたま見た1981年2月7日 取手市民会館での収録の後半のコントでのことです。そのコントは仲本工事さんとの掛け合いで、西部劇によく出てくるバーのセットを使って決闘をするのですが、銃では決着が付かないので、「じゃんけん」で負けたほうが様々な液体をズボンの中に流し込まれるというものでした。この中のじゃんけんの結果は台本ではなく、本当に負けた人がひどい目に合うという流れなのですが、だからこそ露骨に後出しをしたのがわかったり、二人のタイミングが合わずにスムーズにじゃんけんができなければ、コントの面白さが損なわれてしまいます。

そこで、志村さんが開発されたと言われているのが(神楽坂の芸者がお座敷遊びでやっていた形式にヒントがあったとも)、タイミングを合わせやすく後出しも起きにくい掛け声「最初はグー!」だったというわけです。実はこの掛け声が誕生したのは打ち上げで飲み代を恨みっこなしでじゃんけんで負けた人に払わせるために(それまではパトロンの方が常に全額を払っていて悪いとおもったとのこと)、多少酔っ払っていてもタイミングがバッチリ合うように志村さんが考えたのだということです。

最初のコントでも、最後には「最初はグー!」と言って「パー」を出して相手に罰ゲームを押し付ける今もあるパターンで締めていまして、かなり仲間内でやり込んだ後に満を持してテレビで公開したという感じがします。このおかげでテレビのバラエティー番組だけでなく、私達が何かをじゃんけんで決める時にもスムーズに決めることができるようになりました。こんなにはっきりと「最初はグー!」の起源がわかるというのも面白いですが、そこには、テレビタレントとしての相当の勘が働いていたのではないかと思われます。コメディアンとしての志村さんのことを評価できない方もいるかも知れませんが、一世を風靡した人というのは、今回紹介したこと以外にも様々な逸話を持っていらっしゃると思います。今の世を生きるものとして、そうしたことは知った上できちんと人物を評価すべきだろうとしみじみ思います。


中村哲医師の「日本的なる援助」の評価とこれから

アフガニスタンに生きる人々への援助活動を地道に行なってきたペシャワール会の代表である中村哲氏が援助先において移動中、車に銃弾を浴び、帰らぬ人となりました。このニュースでは第一報として軽傷という話が出ていたので、本当にまさかということで訃報を聞くこととなってしまいました。

私自身とはもちろん接点はありませんが、中村医師の書かれた本は読ませていただいていて、現在に至るまでの援助の苦労ということはおぼろげながら知っていたこともあり、本当にこれからだった中村医師の無念さというのはとても大きいということはわかります。

世界各地では多くの生活が普通に行なえない地域があります。その理由は人種差別だったり内戦だったり、異常気象だったりさまざまですが、日本だけでなく世界ではそうした人に対する支援を様々な団体が行なっています。ただ、世界の各地では様々な宗教的・政治的な問題があるところがあり、こちらは援助をしたいのにできない所も多くあります。

例えば中国国内にある新疆ウイグル自治区では一部の報道で人権侵害が行なわれているという話がありますが、この地域は中国の国土であるため実際に援助に入ろうとしても内政干渉ということで中国政府から入国そのものを拒否されてしまうでしょう。さらに、この辺は実にデリケートな問題ですが、今回中村医師が犠牲になったアフガニスタンはイスラム教を信じる人々が暮らす地域です。そこへ、西欧諸国の援助団が入っていった場合、現地の人は「実は単なる援助ではないのではないか?」という疑念を持つ可能性があります。

というのも、ヨーロッパやアメリカの援助というのはキリスト教と結び付いた援助であることが多いので、はるか昔の十字軍の遠征の歴史もありますので、そもそも異教徒との接触を嫌がるケースや、この地でキリスト教の布教をするのでは? という疑念も出てきて敵対的な態度に出る人もいることでしょう。ただ、こうした事は日本でもあったことは日本史を学んでいれば出てきたことだと思うので、何事も性急に行なうことは良くないかも知れません。

日本にキリスト教を伝えたのはフランシスコ・ザビエルですが、カトリックのイエズス会の司教がザビエルに続いて多く来日し、日本での布教を行なう中で日本国内の筋目は変わっていきます。遠藤周作さんの小説で映画にもなった「沈黙」では、キリスト教の次には武力で日本を植民地にしに来るのではと危惧した豊臣秀吉から江戸幕府へと続く日本の指導者たちは、徹底的にキリスト教を禁じる政策を行ないます。今の時代ではキリスト教を布教してから攻めてくることはないでしょうが、キリスト教的な考え方が蔓延することで、今まで作ってきたイスラム教的な社会が崩れてしまうと危機感を覚える人というのは多くおり、その辺が援助する国によっては限界になってしまうことはあったといいます。

中村医師はとにかくそうした宗教的な影を出さないように気を付けながら、当初は医療援助という形でアフガニスタンに入っていきましたが、医療援助だけではこの国の根本的な貧困を解決することができないことに気付きます。そこで次の展開として行なったのが井戸を掘り水路を通し、砂漠だった土地を緑に変え、地域の人々の生活の安定を目指した途方も無い社会インフラ整備のための援助にと舵を切ります。ゆくゆくは自分達は手を引いて現地の人たちだけでやれるようにするための環境づくりをしている中で凶弾に斃れてしまったわけで、まだ道半ばでその後のアフガニスタンの姿を見ることができないとは、本当に無念だと思います。

果たして誰が中村医師を襲ったのかということはまだこの時点ではわかってはいませんが、あれだけ宗教色を無くした援助をしていたペシャワール会の活動を考えると、その援助の姿をよく理解しないまま、自分のエゴで襲った勢力にやられてしまったのかなとも思えます。今回の事件が起きた際、すぐさまタリバンが「自分達のやったことではない」というメッセージを出したことが象徴的に感じます。もしかしたら本部の制御が効かない下部組織の一部の人がやってしまったという可能性はあるものの、タリバン本部でも恐らく中村医師のやった事は評価されていたのだろうと思えるからです。

中村医師は、宗教的なものもそうですが、ボディガードは付けるものの武力を盾にして活動をしたことは全くないということも多くの人に理解していただきたいところです。当然、日本政府からの援助もなく、ペシャワール会の活動に賛同した有志の方の寄付で活動をされていました。今回の事件を受けて犯人を許さないという気持ちにどうしてもなってしまいがちですが、過去に会の活動で現地に出掛けていた青年が撃たれた時も、自分は一人現地に残ってその後も援助活動を続けて中村医師の活動を考えると、これでアフガニスタンから撤退してしまうという選択はされないと思います。ただ、今後のアフガニスタンの状況を見ていくと、継続する援助の難しさというものも感じてしまうのです。
以前は全く何もなかった場所に水が通り砂漠が農地になっていく中、その土地の値段が上がることでさらなる欲を人間は持ちます。日本でも同じような事で醜い争いが起きるわけですから、豊かさを独占したい人と未だ持たざる者との間をどのように埋めていくのか、それはアフガニスタンだけではなく現代の日本社会の課題でもあるわけですので、単純な正解というものはあり得ないでしょう。

今回の事件というのは、援助によって豊かになりつつある地域に起こる地域や個人のエゴがぶつかる小競り合いの中、その象徴的な存在であったペシャワール会が狙われた事件だと思っています。事件の背景を今後分析する中、中村医師がその中にいないのは残念ですが、今後はどのような援助を継続していくのがベターなのか、多くの人を巻き込んで考えていくことが大事ではないかと思う今日このごろです。


ジャズピアニスト 佐山雅弘さんの思い出のアルバム

昔と今とでは音楽の楽しみ方にも違いがありますが、今のようにネットでのストリーミングサービスや動画サイトから世界中の音楽を見たり聞いたりできることが当たり前になっているのは本当に羨ましいと思います。というのも、音楽と言えば公式に売られているレコードを買うか、ラジオで流れるのを聞くぐらいしか出来なかったため、情報は雑誌頼みでさらにマイナーなジャンルである日本人アーティストの奏でるジャズが昔から好きだった身としては、なかなかラジオでも流れないのでなけなしの小遣いからレコードを買うのに直接聞くこともなく全く内容がわからないまま雑誌の内容を鵜呑みにしていたのでした。

そんな中で、日本人アーティストのジャズの新譜など、ほとんど出なかった時代に若手アーティストのリーダー作を出したシリーズというものがありまして、それが「サウンドデザイン」というところの、「ライブハウスの人気者たち~THE SUPER GIG SERIES」でした。そして、記念すべきシリーズの第一弾として最初に出たのが今回紹介したいジャズピアニストの佐山雅弘さんの初リーダー作「スバトット」だったのです。

もし、このシリーズのトップバッターが佐山雅弘さんのアルバムでなかったら、実際のところ私自身がここまでジャズを聞き込むようになったかは疑わしかったとすら思います。それくらい最初に針を落として聞こえてきた「Bird like」(フレディ・ハバード)から「THERE WILL NEVER BE ANOTHER YOU」(ハリー・ウォーレン)へと続く流れは素晴らしく、佐山雅弘さん自身も一気に人気ピアニストへの道を進んで行きました。

1980年代当時には日本のジャズプレイヤーはいわゆる夏フェスに多く出演していまして、イベントに参加することで今度は佐山さんの演奏している姿を生で見ることができ、その人柄にも触れることができました。たまたまその後、佐山さんのもとで一緒に仕事をしていたという人と知り合う機会があり、ジャズから演歌の伴奏まで仕事としてこなす佐山さんの事を伝え聞くことができました。

最近の様子は当然YouTubeやオフィシャルサイトで確認していたのですが、病気になり往年の恰幅の良さは影を潜め、相当痩せていることにショックを受けたものの演奏の内容は素晴らしく、11月14日の突然の訃報にはただただびっくりしているというのが正直なところです。

そんなわけで、ここで改めて紹介したいのが、デビューアルバムに収録されていた中でも個人的には思い入れのある「THERE WILL NEVER BE ANOTHER YOU」を佐山さんが演奏している動画です。若々しさは当然レコードの方があるのですが、この演奏も実に良く「大人の演奏」といった雰囲気を醸し出しています。この音を聞きながら、本日はこのまま佐山雅弘さんを偲ばせていただこうと思います。故人のご冥福をお祈り申し上げます。


樹木希林さんの訃報に触れて

このブログの内容とは全く関係ありませんが、女優の樹木希林さんの訃報がニュースで流れてきまして、それなりのショックを受けています。テレビドラマやバラエティーで見たりするだけの事で、そこまで知っているということではないのですが、その生き方にシンパシーを感じていました。

具体的には、劇団を止めてからは芸能事務所には所属せず、女優でありながら個人事業主という立場で女優のお仕事を続けられていましたが、相手との交渉をお金の面も待遇の面でも自分一人でこなさなければならず、普通の女優さんにはとてもできない活動方法だったのだろうと思います。個人的には漠然と誰にも世話にならず、好きな事をやって暮らしていければいいなとは思っているものの、好きな事をやって生活をしていくということは相当に難しいものです。しかし、75才という普通の人ならとうにリタイヤをして悠々自適な生活に入る人もいる中で自分の意志で仕事をこなしている姿を拝見する中で、自分はまだまだですし、何とかしてそこに近づけるようになりたいと目標にさせていただいていた方の一人でもありました。

そして、もっともっと長生きをして活躍するのではないかというくらい、ここ数年の活躍はめざましく、まさかという気持ちで今もいるのですが、先月に知人宅の外階段で滑って転び、大腿骨を骨折するということがニュースになって、さすがの樹木希林さんでも体が動かなくなってはどうにもならなかったのかと思いました。

転んで骨折するということは、ある一定の年齢を超えるとなかなか大変で、若い時にはしっかりと療養したり手術をすれば元通り元気になると思いますが、骨折して寝たきりになってしまうという事はよく聞くことでもあります。樹木希林さんの場合は全身がんというような事も報道されていましたが、体の老化が進めばがんの進行も遅れると言われていることもあり、今回のようないきなりの訃報を聞くようになった直接の原因は骨折がきっかけだったのではないかと個人的には思っています。

車中泊を楽しんでいる方の中には、シニア年代の方も少なくないと思いますが、日々の生活だけではなく、旅行中にもちょっとした段差につまずいて転んで骨折ということも有り得ます。スリッパより踵を固定できる履物を用意したり、とにかく自分の能力を過信しないで自分を見つめることが大事になってくると思います。

故人のご冥福をお祈りいたします。


望月三起也さんは漫画家でありサッカー界の恩人だった

日本の漫画というのは一つの方向から発展してきたものではないところが面白いと常々思っています。手塚治虫氏を師と仰ぐ雑誌「漫画少年」から出て来た人だけが日本の少年漫画の主流になったというわけではなく、貸本漫画という全く別の方向から大家になった水木しげる氏、さいとうたかを氏のような方もいらっしゃったり、少年漫画だけでも大変多岐に渡る作家さんがいらっしゃいました。

日本の漫画がこれだけの隆盛を極めたのには、一つの流れだけではなく、一方で週刊少年ジャンプ連載の人気投票ありきの流れだけでなく、ガロのような編集者の眼力だけで評価されるような作家の作品も同じように読まれてきたことと無縁ではないでしょう。

私自身が小さい頃に読んでいた漫画雑誌はさすがにガロではありませんでしたが(^^;)、週刊の漫画誌としてはマガジンでもサンデーでもジャンプでもチャンピオンでもない「少年キング」でした。今となってはなぜキングを選んだのかもわかりません。

ちなみに私が読んでいた頃の少年キングはまだ「銀河鉄道999」の連載も始まっていない頃で、自転車で日本一周することを漫画にした荘司としお氏の「サイクル野郎」や、単身アメリカへ出掛け、そこでその当時の日本の事を全くわからずにギャグ漫画を日本に送っていた森田拳次氏の連載があったり、日野日出志氏のホラー漫画でないギャグ漫画が載っていたりと、かなり他とは違う漫画誌だったということは覚えています。

そして、当時の少年キングでの人気ナンバーワンと言えば、やはり今回紹介する望月三起也氏の「ワイルド7」だったのでした。昔の漫画ということでかなりどぎつい表現などもありましたが、荒々しいアクションの面白さと主人公の面々が様々な戦いの中でどんどん殉職していくというのは子供心にトラウマになりかけましたが、夢中になって読んだことを覚えています。

先日の新聞で、その望月三起也氏が亡くなったことを知りました。新聞の訃報欄には漫画家としての業績しか書かれていませんでしたが、私が思うに望月三起也氏のこの世に残したものというのは漫画以上にサッカーというスポーツを日本におけるメジャースポーツになるまで応援し続けた功労者だという風に映ります。

望月三起也氏が選手兼監督として関わったサッカーチーム「ザ・ミイラ」は、芸能人も選手として名をつらね、大きなサッカーの試合の前座として人集めのためにチャリティーで試合を行なっていました。私の今住んでいる静岡県ではまだJリーグ発足前からサッカーが盛んな土地だったので、何かの企画でサッカーの試合があると、よく「ザ・ミイラ」が試合にやってきたことを覚えています。

メキシコオリンピックで活躍した杉山隆-さんと親しかったことから静岡にもやってきていたのかも知れませんが、サッカーに興味がなくてもサッカーをやる芸能人に興味を持って見にきてくれるならと地道なサッカーの普及活動をやったことで多くの人がサッカー自体の面白さに気付き、今のワールドカップに連続出場できるまでの実力が付いてきたと言ったら言い過ぎでしょうか。

サッカーのワールドカップ予選もこれから最終予選に向けて、期待が高まっていくことと思います。望月三起也さんのインタビュー記事を読むと必死になってボールを追いかける一生懸命さが好きだという事でした。女子チームのオリンピック出場が叶わなかったのは、望月氏のおっしゃる懸命さにかけていたのではないかと今になって思ったりするわけですが、今後の男子代表チームが、そうした懸命にボールを追いかける姿を見せてくれることが日本チームをワールドカップに導くのではないかと思ったりするのです。

故人のご冥福をお祈りします。